﷯すべては僕の小学2年生の先生が僕の母親に教室で僕がいかに美しくピアノを演奏するかと電話したことから始まった。

次の週までには僕の家のLiving RoomにはWhite Estey baby grand Pianoが置かれ、ピアノレッスンも毎週取り始めた。譜面上の目に余るほど多い音符はコードネームに取って代わり、僕の演奏のアプローチは1年後にはさらに熱心なピアノ教師のもとで自由で創造力豊かな即興演奏(インプロヴィゼーション)へと変わっていった。 Magdaは僕をジュリアード音楽学院で学ばせるよう準備していた。彼女の息子はクラシック音楽の世界を去りGuy Lombardo Bandで演奏をしていた。彼女は僕に彼女の息子と同じことが起きないようにしていた。彼女の優しい支えは僕をバッハやベートーベン、ショパンの音楽に取り組む助けとなり、2年後に僕は無事ジュリアード音楽学院のオーディションに弱冠9歳で受かることができた。 この成功は僕が毎週土曜日にNew York Cityでピアノ、音楽理論にEar Trainingや作曲に没頭することができることを意味していた。 この時期に過ごした時間は僕の人生の中でも最も音楽を集中的に学んだ時期だった。とても才能のある友達をジュリアードでたくさん作ることができた。 
 ﷯ その一方、興味深い出来事が同時に僕の中で起きていた。いつも行っていた公立学校(音楽学校ではなくて数学などやる場所だ。)に僕は興味を失い宿題もやらずどうでもよくなり、時には学校へさえ行かなくなった。(ピアノを練習するために家にいたことは言うまでも無い。) でも音楽学校に関して言えば僕にとってはすべてがエキサイティングな出来事だった。いつも僕の自信を増し、僕自身の力を発揮することのできる毎週土曜日のジュリアードでのレッスンを心待ちにしていた。この頃の僕の世界を言い表わすと、この一言に限る。 Music Is My Life!! そして僕はジュリアードで9年間学んだ。 ポップミュージックに興味を持ったのは古い45回転のビートルズのレコードを聞いたときだった。
 僕の人生が変わったのは友達がELPのTarkusを聞かせてくれたとき。 
ジュリアード以外でのそんな興味が情熱へと次第に変わっていった。17歳の僕のベッドルームの壁にはMini Moogの写真が飾られていた。そして僕の父さんがおじさんに僕のMini Moogを買うように促してくれてとうとうMini Moogを手に入れた。夢が現実になるとはこのことだね。
 ジュリアード大学へ進学するはずだったこの頃にこれらのMini Moogの夢が叶っていった。僕はジュリアードでの真剣な勉強に対しての興味を失っていったけれど、先生や家族からはクラシック音楽のトレーニングを続けるように強く励まされた。僕は奨学金を得てジュリアード音楽大学に入学した。新しい音楽の先生はきっと僕が次のアメリカの若手ピアニストとして名を馳せるというVisionを持っていた。
 でも、それから僕が出て行くまでにはそんなに時間がかからなかった。片手にはコントローラー、もう片手は素早くシンセサイザー・キーボードの上を動き回っていた。僕はエコーマシーンを荷物に詰めて、出かけていった。
 僕の最初のギグはいろいろな大学のカレッジ・ラジオステーションでやったMidnight Space Jamで、僕が9歳の時、ジュリアードの音楽理論の一番最初の先生だったJoseph Lyonsも含む小さなトリオバンドだった。その時期に僕は自分の心とシンセサイザーをうまく関連させて表現する力を培った。シンセサイザーを演奏することによってまったく違った部分の自分の意識にそれが影響することを認識したのもこの頃だった。そしてそれらの出来事は今の僕にとっても大切な変化だった。
 Rock音楽の楽しみは次第に僕をこの世界に再び引きずり込んだ。メリーランド州で僕はApricot Brandyというカバーバンドで演奏していた。時々僕らはプロムパーティーと高校のダンスパーティーで僕の新しいプログレッシブな曲を弾いてみたりしていた。その中のキッズの数人が僕らの演奏を聞いた時の顔を今でも覚えているよ。
 やがて僕はエピック・レコードとレコード契約していたSpeedway Blvdというバンドに参加するためにニューヨークへ戻ることにした。とてもエキサイティングだった。僕らは1年もの間スタジオで作曲してレコーディングした。バンドのスタイルはRockにProgressive Rockの要素をこっそりと加わえたサウンドだった。でも多くのメジャーレコードレーベルがやるように、そのアルバムが当たり始めた頃、彼らは僕らのアルバムのプロモーションをするのをやめた。
 GuitaristのVinnie Mooreから電話をもらってからいくつかのエキサイティングな出来事が起きた。
﷯ 僕らはNAMM SHOWで知り合った。僕はちょうどその時、バッテリー式の小型キーボードを持っていっていたのだが、Vinnieが彼のBoothで熱くリードギターを弾いているのを見た途端、僕は持っていた小型シンセをつないで彼とジャムったんだ。それから2年後に彼がTime Odesseyというアルバムのレコーディングの準備が整うとVinnieは僕にコンタクトを取ってきた。そして僕はいくつかのオリジナル作品も彼のアルバムに提供して一緒にアルバムを製作した後、ツアーをした。
 僕は大切な友人のJack HotopがKORGでの仕事を持ってきてくれてから本当にたくさんのことを学んだよ。僕らはKeyboardistだけのProgressive Rock TrioのProjectを結成して数多くのMusic Trade Show(NAMMなど)で演奏した。その頃から僕の名前はだんだんとKeyboard Magazineの記事やこのProgressive TrioのLiveレポートなどで知られていくようになった。
 Jan Hammerはいつも僕のヒーローだった。彼のGroupで演奏する機会を持てた時は彼の演奏に驚いたよ。そのバンドのメンバーはJanに僕とFernando Saunders、それからTony Williamsだった。僕らの演奏した音楽は僕自身が今まで最も影響を受けていたものだったので凄まじかった。僕らはアメリカン・ツアーをしMotreal Jazz Festivalではヘッドライナーとして演奏した。 Paul Winter Consortでの活動は今まで長い間、僕の人生となっていった。彼らと世界中を廻って演奏するのは本当に楽しかった。僕にとって素晴らしいMusic Familyとなったこのバンドは各Musician、みんな様々なバンドで演奏してきた才能のある人達だ。このProjectに参加するきっかけになったのはConsortのチェリストのEugene Freisenが僕を見つけ、僕のスタジオに来てジャムセッションをしたことから始まった。 
 そろそろ僕のSolo Albumを作るいい時期だと思っていたそんな矢先、Solo Album“Listen”を作る機会を与えてくれたInvincible RecordのLiv Khalaと知り合い、とうとう僕の頭の中で長年育っていた自分の音楽を表現することができた。 1994年、僕はKeyboard Magazineの読者年間人気投票でBest New Talent部門に投票された。僕を最もエキサイティングな気分にしたのはOverall Best Keyboardist部門で憧れのKeith Emersonに続き2位になったこと。この名誉は本当に僕の音楽活動に火を点けた。
 雨が降ると土砂降りになるように、物事は度重なるものだ!...1週間の間にDream TheaterとDixie Dregsの両方から電話を受けた。もう時期始まるDregsのツアー用に採譜するのとShowのためのシンセサウンドをプログラミングする時間を1週間ほど費やした。Steve Morseの家でリハーサルがある2日前にDream TheaterのオーディションがあったのでDream Theaterの曲の採譜とプログラミングも同じようにした。Dream Theaterではすごい経験だった。実際Concrete Music Conventionでは彼らとショウもこなした。嵐が去り、僕はDregsに参加し彼らとツアーに出ることを決心した。でもそれを決めるのはそう簡単なことではなかったんだ。
 『フラッシュバック......回想』 僕はニューヨーク・シティでのDregsのショウをあの大切な電話をもらう3年前に見ていた。僕は彼らのファンの1人にすぎなかった。僕は観客の中でDregsのドラマー、Rod Morgensteinが僕の音楽を一緒に演奏してくれたらどんなに最高かと空想していた。夢を大切に信じて!
 ある夜のDregsのコンサートで電源が落ち、何故か僕以外の他のメンバーの機材はまったく使えなくなった。Rodと僕はそれでも演奏を続けた。僕はもっと強烈なサウンドに切り替え、僕らがよく演奏していた曲のテーマを繰り返しながらインプロヴィゼーションし始めた。他のメンバーは電源が落ちたことに当然、ひどくイライラしていたが、僕らのジャムが最高だったのですぐに笑顔を取り戻してくれた。電源が戻ると彼らも演奏に加わり曲のエンディングはとてもビッグサウンドになった。その時の出来事がRudess Morgenstein Projectの始まりとなり、3年前に見た僕の夢は......
 夢は叶うんだ。そう、これから10分後にスタジオでRodと会うところなんだよ。

(翻訳:佐藤 敦)